朱りんふぁのブログ

「差別」の定義とVRChat ~ JPHub様の規制を参考事例に

(2021年06月16日 初稿)

(2021年11月21日 改訂)

 

お断り

この記事は、専門家ではなく、経済学を専攻した一般人によって、一般教養の範囲の法学等の知識を用いて書かれたものです。*1

 

 

はじめに

はじめまして、朱りんふぁです。

中華風のハンドルネームだけど、日本人です。

 

近日、VRChatの界隈で「JPHub」様という日本人向け(現在は日本語話者向け)のワールド*2で、日本語のテストによる利用制限をかけたことが大きく話題になりましたよね。

 

大きく話題になり過ぎて、それまで色々な形でVRChat内に存在していた不満や軋轢が噴出してくっついた結果、ひどく炎上してしまったように見受けますが、個人的には平和に暮らして居たいので「何だかなぁ」と思いながら、基本的に荒れるさまを傍観していました。

(あと、それに伴って発生した、ワールドに関する話を超えた一部の本物の排外主義的な反応は、ちょっぴりショックでした。)

 

なので、あんまり携わりたくないという思いが強いのですが、その一方で、少しだけ気になったことがあります。

 

それは、「これは区別であって差別ではない」というようなコメントです。

 

確かに、我々が日常で日本語を使いながら暮らすうえで「差別」と「区別」は同じ意味の単語ではないように見受けます。

特に、母語として日本語を使う人の場合、わざわざ定義をつけることなく、全く意識せずとも何となく使い分けられるので、意識することはあまり無いような気がします。

(正直ボクもそうです。)

 

しかし、よく考えたら「差別」の定義とは一体なんなのでしょうか?

 

タイムラインには様々な意見・批判・賛同・罵倒が流れてきましたが、よく見ると「差別だ」「差別じゃない」と言いつつ、何だか「差別」の定義自体がズレているようにも見えます。

その一方で、根本的に「差別」とは何かを論ずる人は居ないように思われました。

(もちろん、著者のタイムラインに流れてこなかっただけの可能性もありますが。)

 

なにせ、十人十色という言葉もあるくらいです。

多分誰しも、生きていれば意見の一つや二つはあるのが当然で、それはこの多様な社会の実現に非常に重要なことと思われますが、しかし、もしも「議論」をする上で「前提」が食い違っていたら、もはやそれは言葉のキャッチボールではなく、言葉の殴り合いではないでしょうか。

 

これでは、ボクらはお互いに殴り合い、傷つき合い、そして消耗するだけです。

古典的な青春マンガの一ページと違って、今時は殴り合ったら「そうか、お前はそう考えて生きてるんだな!」と相互理解や友情が深まるのではなく、「は、何言ってんだコイツ。関わらんとこ」となりがちです。

地縁・社会的関係により強固に結ばれていて、離れたくても離れられなかった旧来の社会と違い、僕らの生きる現代情報社会の、特にネット上の縁の脆さは想像以上です。

 

そのためにも、僕らはきちんと話し合うために、「差別」という言葉の定義を探さなければなりません。

しかし、言語学者でもない僕は、果たしてこれをどこから見れば良いのでしょうか。少し悩んでしまいますね。そもそも、言語学社会学・法学とかで色んな定義がありそうな気もします。

しかも、VRChatの運営がアメリカなことを考えると、万が一自分が差別だと思わなくても彼らの基準で認定されてBAN等を喰らったりしたくないので、なるべく日本でもそうだと納得できつつ、国際的にも通用しそうなものが良さそうです…。

 

と思っていたところで思い出したのが、こちらの記事

当時、東京大学で特定短時間勤務有期雇用教職員だった方の発言が問題になり炎上していた時に、一橋大学の博士課程の方が書かれた文章で、人種差別撤廃条約」なる日本でも国際社会でも通用しそうなものから「差別とは何か」等に関して論じています。

 

これを丸投げしようかとも思ったのですが、問題の性質が雇用とかで大きく違うことや、中身のわかりやすさに対してタイトルとかが結構キツいことから、ちょっとそのままは難しいように思われました。

でも、人種差別撤廃条約からなら、少なくとも「法的な」観点から差別に関して考えられます。(詳細は後述)

 

あと、もう一つ。

これはもう少しフワッとしたものですが、国際連合による説明も、有名なものがあるようです。残念ながら国内の定義ではありませんが、日本も加盟国の一員なので参考にはなると思いますし、一応補足的に見ておきたいところです。

 

ということで、前置きが長くなりましたが、今回は「人種差別撤廃条約」における「差別」の定義と、国際連合による定義を見ていこうと思います。

 

 

本論:差別を考える

人種差別撤廃「条約」って何?

そもそも、人種差別撤廃条約とは何かですが、こちら正式名称を「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」と言い、1965年に採択され、日本も1995年に加入。現在、一部の留保・不宣言事項を除いて発効しています。*3

 

「条約」と言うと、基本的にはニュースで「貿易条約が締結!」みたいな話を見ることが多いと思うんですが、僕らの生活には間接的に関係があっても、直接はあんまり関係なさそうに感じるかもしれません。

 

でも、実は「条約」は、日本国憲法において「憲法」と「法律」の中間に位置付けられる存在です。

また、日本では、条約は公布と共に国内法として受容され直ちに法的効力を持つとされていて、これを専門用語で「一般受容方式」と呼ぶそうです。*4

なので本当はちょっと違うけど、分かりにくかったら、実は「法律」みたいなものだと考えてもらうのが近いかもしれません。(専門家には怒られそうだけど。)

 

つまり、憲法とか法律と同じようなものってことは、例え「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」みたいに有名無実化してたとしても、一応法的拘束力があるということですね。

 

人種差別撤廃条約の内容を見る

まずはざっくり全体から

さて、条約が実は法律とかに近しい存在だとわかったところで、早速中身を見てみましょう。

とはいえ、全部見るととてつもなく長いので、まずは一番僕らに関係ありそうな差別の定義の部分を抜粋してみます。

 

第1条

1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。

 

第2条

1 締約国は、人種差別を非難し、また、あらゆる形態の人種差別を撤廃する政策及びあらゆる人種間の理解を促進する政策をすべての適当な方法により遅滞なくとることを約束する。このため、

(a)各締約国は、個人、集団又は団体に対する人種差別の行為又は慣行に従事しないこと並びに国及び地方のすべての公の当局及び機関がこの義務に従って行動するよう確保することを約束する。 

「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」, 外務省 2021年6月12日閲覧)

 

ちょっと堅苦しいですね。

 

まあでも、なんとなく「人種・皮膚の色・血縁・民族・種族とかで『区別』・排除・制限・優先するのを、公的生活の場で行って人権とか基本的自由を制限する目的や効果のあること」を、個人集団問わず禁止している、みたいな感じなのは分かります。

 

ここで気になるのは「区別」の語が出てきたことです。この文言に従うなら、「区別」の一部は「差別」に内包されることになります。

つまり、「差別じゃなくて区別だ」というのは、「区別」の方法・目的・効果などによっては詭弁だということになります。

 

しかも、先の記事でも強調されてるのですが、「効果」があればそれは差別になるようです。そう、必ずしも意図しなくても「効果」が出てしまうと「差別」にはなりうるようです。

 

差別って、意外と厳しい定義があったんですね。

 

それにしても、なんとなくは分かりましたし、重要そうな事実は幾つか分かりましたけど、「差別」の定義に関して悩んでたのに、よく読むと良く分からない言葉が沢山あります。「公的生活」とか「種族」とか。

特に、今回この記事で扱っているのは「差別とは何か」ですが、書くきっかけの一つであり、例として扱っている、JPHub様で採用された「言語的な制約」に基づく「ワールドの利用の制約」に関してなどが(初期の居住地制限は基本扱わない)、これでは直接は分かりません。

 

しかも、憲法や法律って解釈学で、それを巡って政府と個人がよく裁判所で「違憲だ!」「違憲じゃない!」って争ってたりする領域ですから、可能な範囲で自己流の解釈は避けた方が良さそうです。弱った…。

 

しかし、そこは流石に想定のうち。

外務省のHPにはきちんとQ&Aがついてるのでした。

 

「民族的若しくは種族的出身」の定義

 

Q1 この条約の対象となる人種差別とは何ですか。

A1 この条約の対象とする人種差別については、この条約の第1条1において、「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するもの」と定義されています。
 この規定において差別事由とされている「人種」、「皮膚の色」、「世系」及び「民族的若しくは種族的出身」については、この条約の適用上、必ずしも相互に排他的なものではありません。この条約の適用上、「人種」とは、社会通念上、皮膚の色、髪の形状等身体の生物学的諸特徴を共有するとされている人々の集団を指し、「皮膚の色」とは、このような生物学的諸特徴のうち、最も代表的なものを掲げたものと考えられます。また、「民族的若しくは種族的出身」とは、この条約の適用上、いずれも社会通念上、言語、宗教、慣習等文化的諸特徴を共有するとされている人々の集団の出身であることを指すものと考えられます。更に、「世系」とは、この条約の適用上、人種、民族からみた系統を表す言葉であり、例えば、日系、黒人系といったように、過去の世代における人種又は皮膚の色及び過去の世代における民族的又は種族的出身に着目 した概念であり、生物学的・文化的諸特徴に係る範疇を超えないものであると解されます。

「人種差別撤廃条約 Q&A」, 外務省 2021年6月12日閲覧)

 

なるほど、「また、『民族的若しくは種族的出身』とは、この条約の適用上、いずれも社会通念上、言語、宗教、慣習等文化的諸特徴を共有するとされている人々の集団の出身であることを指すもの」ですか。お堅い…。

 

よく見たら「言語」が入っていますね。

 

しかし、「日本語を共有するとされている人々の集団の『出身』」かどうかと、現時点で「日本語を使用言語としているか」は、必ずしも一致するとも限りません。

 

つまり、「外国人に対する制限」は「民族的若しくは種族的出身」に明白に引っかかるのですが、「非日本語話者に対する制限」を実施した場合に関しては、もしも「出身」の一言が無ければ即座にアウトになるところだったものの、ギリギリで踏みとどまっている感じがあります。

 

(もしも、この文章に関して専門家の方で「抵触する可能性が高い」と思われる場合は、是非この記事を引用して補足の記事を書いたうえで御連絡ください。忙しいので遅くなるとは思いますが、リンク等を掲載します。)

 

「公的生活」とは

一方で、「公的生活」に関してはどうでしょうか。

 

Q3 第1条の人種差別の定義にいう「公的生活」とは、どういう意味ですか。

A3 「公的生活(public life)」の意味とは、国や地方公共団体の活動に限らず、企業の活動等も含む人間の社会の一員としての活動全般を指すものと解されます。つまり、人間の活動分野のうち、特定少数の者を対象とする純粋に私的な個人の自由に属する活動を除いた、不特定多数の者を対象とするあらゆる活動を含むものと解されます。

「人種差別撤廃条約 Q&A」, 外務省 2021年6月12日閲覧)

 

こちらは、まだ分かりやすそうです。

パブリックワールドはどう考えても「特定少数の者を対象と」しているとは言えなさそうですし、そもそも名前からして「パブリックワールド」です。

つまり、「フレンド」で建てられたイベントとかなら別として、「パブリックワールド」自体は、公的生活の方に該当しそうです。

 

「人権及び基本的自由」

また、外務省のQ&Aは以上ですが、第一条で妨げたり害されたりしてはいけないとされるものは、「政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使すること」とされています。

一体、この「人権及び基本的自由」とは何なのでしょう。

 

Q&Aが無いので、仕方ありません。論文とか専門家による記事を参照しながら考えてみましょう。

 

まずは、「基本的人権」って単語を聞いて、何を思い浮かべられますか? 

目ざとい方は、「基本的人権」と聞いて即座に憲法を思い出されるかもしれません。中学校の公民の授業とかでやりますよね。

 

そして、実際に条約は憲法の下位の存在なので、この「人権及び基本的自由」は、基本的には日本国憲法下で保証されている「法の下の平等」とか「表現の自由」とか「言論の自由」とか、そういう物になると思われます。

 

なので、例えばJPHub様の件で考えると、「制限」されているのは「言語」と「ワールドの(一部の)利用」ですが、日本国憲法に「言語の自由」という独立した項目はありません。

実際に、言語権は少し弱い概念で、日本国内では少なくとも確立できていないようです。*5

 

他にも、少し怪しいのは、日本国憲法第13条に

 

十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

「日本国憲法」, e-Gov法令検索 2021年06月15日閲覧)

 

とあることが何処まで「自由」を規定しているかですが、この部分の「自由」の解釈には多種多様な領域での自己決定権を保護する一般的行為自由説と、人格的生存に不可欠な要素に限る人格利益説があり、通説は後者だそうです。*6

それを踏まえると、やはり直接は影響しないと言えそうです。

 

そもそも、「人権」や「基本的自由」は、個人間というよりも国家対個人を想定して作られている部分が大きいので、もちろん個人間に適用されるものもありますが、少しこのような事例には弱い気もします。

 

なので、この部分に関しては、概念的な「差別」の定義を見るという意味では少し弱くて、今参照しているのが「条約」であることによって、法的に禁止されるべき部分としての実情に引っ張られていると言えるかもしれません。

(多くの人や団体が人種差別撤廃条約と「差別」を説明する際に、曖昧に此処を「自由」程度に濁してしまうのも、その点が理由かもしれません。)

 

しかし、上記よりも不味いことに、人種差別撤廃条約には、具体的に

 

第5条

 第2条に定める基本的義務に従い、締約国は、特に次の権利の享有に当たり、あらゆる形態の人種差別を禁止し及び撤廃すること並びに人種、皮膚の色又は民族的若しくは種族的出身による差別なしに、すべての者が法律の前に平等であるという権利を保障することを約束する。

  ((a)~(d)中略)
(e)経済的、社会的及び文化的権利、特に、

  ((i)~(v)中略)
(vi)文化的な活動への平等な参加についての権利
(f)輸送機関、ホテル、飲食店、喫茶店、劇場、公園等一般公衆の使用を目的とするあらゆる場所又はサービスを利用する権利

「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」, 外務省 2021年6月12日閲覧)

 

という部分があります。

 

(e)(vi)に「文化的活動への平等な参加についての権利」と、(f)「一般大衆の使用を目的とするあらゆる場所またはサービス」が入っています。

特に、(f)には「飲食店」や「ホテル」などの私企業も含まれていることから、公的な機関のみならず、一般大衆を対象とした私的なサービスも含まれるようです。

 

この一般大衆とは、他の法律の解釈からの援用ですが、基本的に不特定多数を指し、その判断基準は「個人的つながりのない」「ある程度以上の複数」を指すらしい*7ので、これに従うと、VRChatのPublic化ワールドの利用者は全てが知り合いではなく利用者も少なくないので、確かにワールドの利用の制限は(f)に該当することになりそうです

 

条文を見ると「次の権利の享有に当たり、あらゆる形態の人種差別を禁止し及び撤廃すること」が約束しなければいけないものの一つとされているので、つまり、しっかりと享有されるべき人権の例が述べられていて、憲法で足りない部分が追加されています。

したがって、「ワールドの利用の制限」という形態は、人種差別撤廃条約上においては「人権及び基本的自由の享受の妨げ」に抵触する可能性が高いと考えらえます。

 

ちなみに、よく見ると続きには、もう一つ約束せねばならないものとして「すべての者が法律の前に平等であるという権利を保障すること」が挙げられています。

法の下の平等自体は、日本国憲法にもある概念ですね。

 

ただ、法の下の平等とは、

 

あくまでも国家による不平等取扱いの禁止・法律上の均一取扱いの要求という形式的平等を内容とする(通説)

「法の下の平等」, Wikipedia, 2021年6月15日閲覧。*8

 

とのことなので、つまり(e)や(f)に関して、昔のアメリカの州法で「黒人はマークがついてる席しか所だけ」とか定めたのよろしく政府・国家・法律がやってはいけないという話であって、こちらに関しては特段の影響はないと考えられるでしょう。

 

つまり、上記の解釈に誤解や非通説的なものが混じっていない限り、「ワールドの使用の制限」に関しては、人種差別撤廃条約上の「人権及び基本的自由の享受の妨げ」に該当していると考えられ、「差別」の定義の一部を満たします。

ただし、先ほども見た通り、その前提である「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づく」の部分は使用言語による区分に対応していなかったので、全体としては抵触していないと考えられるでしょう。

 

「目的」と「効果」

ただし、気になるのは先の「目的」だけでなく、「効果」も抵触する恐れを持つという所です。

例えば、もしも何処かのワールドが話題となって、最終的に上記に少しでも抵触するような行動等を誘発してしまった時は、多分あっさり抵触してしまうことになります。

そういえば、ここ最近Twitterでは何か炎上騒ぎが起きてましたが、そこで醸された発言の中には…。

 

つまり、JPHub様を擁護しようと論陣を張ること自体は、この定義上では、ただちに「差別」を助長する行為ではなく問題のない行為ですが、その過程で誤って、例えば「日本語」から「日本人」に話がシフトしたり、上記に抵触するような頓珍漢な議論を繰り広げると、逆に「効果」の項目に抵触して「差別」に該当することになってしまいます。*9

 

まずは落ち着き、論理的に考えることが肝要だと思われます。

感情に任せて思ったことをタイムラインに叩きつけるのは、きっと悪手です。

  

人種差別撤廃条約に関する小括

以上から、人種差別撤廃条約における差別とは

「過去の世代におけるものを含む、生物学的特徴や、言語・宗教・慣習などの文化的諸特徴を有する出自によって、区別・排除・制限・優先を行うことで、特定少数の人を対象にする純粋に私的な個人の自由の範囲外で、人権とか基本的自由の認識・享受・行使を害したり妨げる、目的や効果のあること」

と、言えそうです。

 

つまり例えば、もしも「外国人」そのものの「ワールドの利用の制限」を「目的」としている場合は完全にアウトで、多分炎上した原因の一つもここが目的だと思われたのが影響してると思うのですが、あくまで「非日本語話者」がターゲットだった場合は、これは「人種差別撤廃条約」上の定義に現時点での使用言語による区分が含まれないがために、ギリギリでセーフとなりそうです。

 

一方、ギリギリセーフと言っても、この制限が他の差別に抵触する行為を誘発してしまった場合は、法的に指すところの「差別」となると思われます

また、このギリギリな状態が果たして道義的に良いのかどうかは、道徳論的な話なので今回の議論とは別の問題です。

 

国際連合の定義

さて、人種差別撤廃条約が果てしなく中途半端に終わってしまったところで、かつて国際連合が、ウェブサイトで子供向けに説明していた定義を見てみましょう。

 

人間も多くの点で異なります。これらの違いのいくつかは、肌の色、髪の質感、性別などの物理的なものです。言語、習慣、信念などの他の違いが学習されます。
これらの類似点と相違点は、人々が自分自身を説明または識別するために使用する一般的なカテゴリを説明する用語である社会集団の基礎です。

(中略)

差別とは、特定の社会集団に所属しているために人々を不公平に扱う行為です。差別的な行動にはさまざまな形態がありますが、それらはすべて何らかの形の排除または拒絶を伴います。

「Understanding Discrimination」, 国際連合 2014年6月1日時点でのアーカイブを、2021年6月12日に閲覧。Google翻訳を利用しつつ、著者が翻訳)

 

こちらは滅茶苦茶単純明快。先のように考え込む必要はゼロです。

特定の、「言語」等で識別される社会集団に所属する人を不公平に扱った場合は「差別」に該当します。つまり、非日本語話者がワールドを使用できないように「拒絶」する行為は「差別」に該当します。

 

ただし、これは別段法律とかでは無いので、この定義上の差別を行ったところでこちらには法的な問題等はありません。

(法律の専門家ではないので絶対的に他の条約や法令に反しないとは言えませんが、日本は差別に対する法整備が薄いので、目立つものは人権三法程度しか存在しません。)

 

そのため、問われる問題は、意図してもたらされたか否かに関わらず存在する現状の結果を修正するか否かに、道義的責任が生じるか否かになることでしょう。

この先は道徳論や責任論の問題で、今回扱う「差別とは何か」というテーマとは整合しません。

 

 

結論

ということで、差別に関する法的な定義とか国際的な定義とかを見てきたわけですが、ものによって

「過去の世代におけるものを含む、生物学的特徴や、言語・宗教・慣習などの文化的諸特徴を有する出自によって、区別・排除・制限・優先を行うことで、特定少数の人を対象にする純粋に私的な個人の自由の範囲外で、人権とか基本的自由の認識・享受・行使を害したり妨げる、目的や効果のあること」とか、

「特定の、肌の色・髪の質感・性別などの物理的な特性や、言語・習慣・信念などの違いでカテゴライズされる社会集団に所属しているために、人々を不公平に扱う行為」

などの、少し違った定義が存在するということになりました。

 

なので、例えばJPHub様に関する話なら、法的な方面から見るとギリギリセーフのところを走っていて、周りの対応次第では抵触してしまう可能性が大きく、意見表明の際は慎重にならねばならないということが分かりました。

一方で、国際連合の定義においては残念ながら差別の定義に当てはまってしまっていて、「差別」であるとの批判自体には、一定の根拠があることも分かりました。ただし、是正に関しては、道義的な観点でどう扱われるかや、社会的責任が所在するかという別の問題であることも分かりました。

 

 

補論

JPHub様の件に関して、上記を応用して、関連するいくつかの気になる点に関して考えてみたいと思います。

①作者様はレイシストなのか?

正直、作者様をレイシストと叩くのは、行き過ぎていると思います。

レイシストとは「人種差別『主義』者」のことですが、あくまで作者様の意図は「外国人の排斥」等ではなく「言語差でユーザー間の意思疎通等が取れず、どうにもならない現状」への対応だと思われるので、レイシストでは無いと思います。直接の知り合いじゃないので、あくまで作者様の意図は仮の話に過ぎませんが。

 

また、上記を踏まえるなら、今回の件を見ていて作者様に人格的非難が浴びせられるのは非常に間違ったことだと思います。

そもそも人間に過ちを犯しているからと他者の人格を攻撃する権利があるのかは別として、「御本人による差別的な意図」が無いならば、人格の非難という方法には、意味も正義も無いと思います。

 

あと、ちなみに、根拠が間違っている場合は当然として、たとえ内容が客観的に正しかったとしても、非難の度が過ぎる場合や幾つかの要件に該当する場合は、誹謗中傷の法的要件を満たすことがあります。

詳しくは「誹謗中傷」で検索してください。

 

Webサービスが言語でプレイヤーを分けることは当たり前で問題ないのはそうだけど、その話は今回の問題と符合していますか?

少し話が違う気がします。

というのも、大抵のサービスでは「どの言語を使用するか」を、そのレベルに自由に選択する権利が我々にあるからです。

 

皆さんも多分、TwitterとかWindowsの言語で日本語を自主的に選択してますし、一方で、もし英語を使いたければ、たとえどんなに英語が下手でも英語に切り替えられるし、知らなくても中国語が良いなら中国語にすることもできるわけです。

また、サービス自体に利用できる言語が英語しか存在しないなら、どんなレベルでも、しぶしぶ英語を自主的に使うわけです。VRChatのUIみたいに。

 

だから、例えばクエスト日本集会場様などが、日本語で全てが構成されて、日本語が主流になっていても何ら問題が無いことの理由としては、見出しの主張の通りだと思います。ユーザーは自主的に日本語の環境を選択しているのです。

 

そもそも、クエ集様は、特段の「日本語話者以外を『制限・排斥』する」目的があると皆に思われず、かつてHot Worldに載った時に外国の人が押し寄せて大混乱に陥った事件から考えると、そのような効果を発揮することもありませんでした。なので、実際に差別として炎上したりすることも無かったのではないかと思われます。

(目的があったかは作者様の意図次第ですが、普通に考えれば上記の通りでしょうから、そもそも今回の議論の定義上でも「差別」では無いでしょう。)

まさしく現時点では、自然発生的な区分け・棲み分けの成功例のように思われます。

 

一方で、「ここでは日本語を使ってください」というのは、特定の言語の使用を要求しています。ほんの少しニュアンスが違う気もしますが、でも、これは結果として「サービスが英語だけで提供されている」環境とあまり変わらない話なので、あまり問題のようには思われません。

しかし、「日本語が出来ないなら入場させない」となると、一定のレベルに達しない人を明確に「制限」し「排除」してるという点は、言語の選択的区分け以上の問題のように思われます

 

例えば、下手くそな英語を選択的に使用してVRChatを利用しているボクらに対して運営が、「TOEIC600点レベル未満はVRChatを利用しないようにログインテスト作ったから」と言っている状態に近い気がします。

(ちなみに日本語検定N3はTOEIC400点レベル。N4は300点レベル。ただ、表音文字だけを使ってる人々が3種類も新しい文字を覚えるのは、僕らが梵字とタイ文字とチュノムとを覚えさせられるレベルで大変。)

 

ちなみに、これは地域による区分け・制限とはまた、異なる話です。

配信サービス等でアクセス制限がかけられていることには技術的制約や国ごとの法律の違いなどの影響も大きく、一概に同様に論じることは出来ません。

 

人種差別撤廃条約には実は保護のための優遇に関する例外規定もありますが?

実は、色々な例外規定が存在します。

ただし読めば分かる通り、「人権及び基本的自由の十分かつ平等な享有を保障するため」にカウンターとして許容されているだけで、いちソフトウェア内での言語話者を保護できるような物とは、とても思えません。

 

 

感想

ところで、最後に強く言っておきたいのですが、こういう物を書くと「お前はそこまでしてJPHubを非難したいのか」とか「JPHubをもっとしっかり非難しろ」とか正義感の強い人たちに言われそうで、正直公開前からナーバスになってます。

 

なのですが、前書きの始まりの通りボクがこの記事を書いた理由は「差別って何?」の統一した前提を形成するための、一つの考えを示すためでした。あくまで可能な限り、その文脈で書いたうえで、JPHub様の件は例として挙げています。

 

したがって、善悪論的な問題・道義的責任の有無に関しては、一応、あまり触れることがないように話を進めたつもりです。

そもそも、改善法や根拠を示さずただただ責め立てる「非難」と、論理的に問題が存在することを指摘する「批判」は、全く違う問題です。

 

(ちなみに、専門家の方が出てきて「お前はなっとらん!素人が余計なことしやがって!」とボコボコにされるのも怖いですが、これを契機に専門家の方がより正しくてより分かりやすい記事を書いてくれたりするなら目的は達成されるので、その可能性については諦めてます。)

  

では、結局著者個人はJPHub様に関していったいどんなスタンスなのかという話になりますが、正直微妙な感じです。

 

確かに、本人たちが日本語で話していて、口をついて言葉は出てくるけど文法や漢字は苦手な、日本人の嫌な人何かに比べてよほど楽しく過ごせるようなフレンドたちのことを思い浮かべると、特に胸が痛む部分が大きいです。

そういう意味では、個人的にはJPHub様を使う気が正直起らないことを含めて、批判的なのかもしれません。

 

ただ、一方で、このVRChatの世界で外国の人のたまり場と化した日本語話者のたまり場「だった」場所のことを思い、知らずに初心者としてそういう所へ行って激しく混乱した過去等をふまえると、個人的にも思うことが色々とあって、正直この件に関して「差別だ!是正しろ!」と、声を上げて非難する気も起きないというのも現実です。

 

この文章とて「定義の定まらない用語を使ってタイムラインで殴り合うのをやめて欲しい」という思いや、普通のお気持ち表明の範囲をあまりに逸脱していそうな、あからさまな本物の「排外主義」をタイムラインで見たことへのショック、「結局『差別』って何?」という疑問から書いたもので、JPHub様に現状の是正を要求しようとか、そういう話ではありません。

 

そういう意味では、比較的ニュートラルかもしれません。正義非正義や、敵味方で全てを区分けする人には非常に気に食わない存在かもしれませんが。

 

ところで13000字も書くと、とても疲れますね。

御存じの方は御存じの通りゴールデンウィークも土日も無くなりがちな生活をしてるので、この時間をVRChatに使えばどれだけ楽しく遊べたか考えると、正直失敗した気がしなくもないです。

たぶん大いに意義はあったけど、ダイナミックお気持ち表明のために力を注ぎ過ぎました。

 

 

参考文献

 

*1:11月21日追記。前も読めば分かるようになっていたけど、念のため。

*2:2021年11月22日現在、サービス終了済み

*3:「人種差別撤廃条約」, 外務省  2021年6月12日閲覧。

*4:「『憲法と国際法(特に、人権の国際的保障)』に関する基礎的資料」p10, 衆議院 2021年6月12日閲覧。

*5:「国際法上の言語権概念の日本国内法における受容について」, 杉本篤史, 社会言語科学会 第42回大会 Web発表論文集

*6:「幸福追求権の射程 ―憲法13条を根拠とする「新しい人権」の資格認定基準―」, 植田徹也, 四天王寺大学紀要第56号, pp43-52

*7:【出資法の『不特定かつ多数の者』の解釈論】 | 企業法務 | 東京・埼玉の理系弁護士

*8:注記:本来は著者がはっきりしないことや、正確性の観点からWikipediaよりの引用は好ましくないが、この部分に関しては2冊の本を出典としている旨が示されているため、特別に用いた

*9:11月21日追記。ここに関しては、参考文献の梁英聖氏の記事の定義に沿う形でこのように書いていますが、法学的な「効果」の解釈が、果たしてこれで正しいのかという疑念が読者から呈されています。